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焼き鳥のイベントがあると聞いて、上田市にある上田城址公園へ行ってきました。
晴天と夏日のような高温でしたが、イベントは大盛況の様子で、熱気もムンムン楽しさMAXでした。

やきとりフェスティバルとは

「やきとりJAPANフェスティバル2024in信州上田」は、全国ご当地やきとりフェスティバルとも呼ばれており、長野県上田市にある上田城址公園で開催される食のイベントです。
北海道から沖縄まで、全国14店舗のご当地やきとり店が上田市に集結して、日本各地の特色ある焼き鳥を一度に楽しめる機会となっています。

他にもラーメンのブースや、キッチンカーブース、上田市内の酒蔵のお酒と地ビールと長野のワインなどが揃ったドリンクブースもあるし、シャインマスカットやジェラート、クレープなど、大人だけではなく小さなお子さんも楽しめるようなものもありました。

6日の日曜日は晴天ということもあってか、とても多くの方が来場されていましたよ。
上田城址公園の芝生広場は、やきとりを焼く煙と、多くの方の熱気で大変盛り上がっていました。

焼き鳥の歴史について

何それ?と思う方もいるかとは思いますが、焼き鳥の歴史について調べてみることにしました。
焼き鳥の歴史は古代から現代まで長い変遷を経ています。

古代から江戸時代まで

焼き鳥の起源は古代にさかのぼります。
676年の奈良時代に日本初の「食肉禁止令」が発令されましたが、これは当時すでに鶏が食用とされていたことを示しています。
平安時代には、古文書『類聚雑要抄』に「鳥焼物」という記載があります。ただし、これはキジやカモなどの野鳥を指していたと考えられます。鎌倉から戦国時代にかけて、天皇にはキジ、カモ、雁、スズメなどが供されていました。
1643年の料理本『料理物語』には「焼き鳥」の文字が登場し、江戸時代中期には鶏を串に刺した調理法が記されるようになりました。

江戸時代に焼き鳥の調理法が変わった理由は

江戸時代に焼き鳥の調理法が変化した主な理由は、料理文化の発展と食材の利用方法の工夫にあります。
江戸時代初期の料理本『料理物語』には、焼き鳥として小鳥を開いて焼いたものや肉の小片を焼いたものが紹介されています。しかし、江戸時代中期になると、より現代の焼き鳥に近い調理法が登場しました。

江戸時代中期に発刊された『合類日用料理抄』には、以下のような串焼きの調理法が記されています。
1.鶏肉を串に刺す
2.塩を振って焼く
3.酒を加えた醤油につけて提供する

この調理法は、現代の焼き鳥の原型と言えるものです。
変化の理由としては、以下のことが考えられます。
1.料理文化の発展: 江戸時代を通じて、料理技術や食文化が発展し、新しい調理法が生み出されました。
2.食材の有効活用: 鶏肉を部位ごとに分けて串に刺すことで、食材をより効率的に使用できるようになりました。
3.味付けの工夫: 塩や醤油を使用することで、より美味しく食べられるようになりました。
4.大衆化: 串に刺して焼く方法は、屋台などでも提供しやすく、大衆化に貢献しました。
5.保存性の向上: 塩を使用することで、肉の保存性が向上しました。
これらの要因により、江戸時代を通じて焼き鳥の調理法が徐々に変化し、現代に近い形へと進化していったのです。

明治時代以降

明治時代になると、焼き鳥屋台が登場し、鶏の端肉や内臓、豚牛の内臓の串焼きを扱う店も増えてきました。
昭和初期は鶏がまだ高価な食材だったため、高級焼き鳥店が登場しました。

現代の焼き鳥

焼き鳥が大衆食となったのは昭和30年代後半で、アメリカからブロイラー(短期間で肥育できるよう品種改良された若鶏)が導入されたことがきっかけでした。
平成に入ると、食の安全や高品質を求める傾向から、地鶏が注目されるようになりました。
現在、焼き鳥は日本国内だけでなく、世界各国でも愛される和食の代表料理の一つとなっています。このように、焼き鳥は日本の食文化の変遷とともに進化を続け、今日の姿に至ったのです。

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